なぜ、わたしが「正直」を使命と掲げているのか。

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はじめまして! 

言いやすいし、なんでもすぐ来てくれはる」 と言われる、とっても親しみのある工務店の 安田功(やすだいさお)です。 

安心してお任せできるから、ありがたいですお客さんが“笑顔”になることが、わたしの よろこびです。

そのために、どんなときも、 どんなことも、ざっくばらんで対応してもらえる と言われるように、心がけていきます。 

 

略歴

昭和41年大阪阿倍野生まれ。阪南小―阪南中ー住吉高ー龍谷大学。ハウスメーカーを経て昭和初期創業の祖父の代からの工務店を継ぐべく三代目修行中。新築・リフォーム・店舗工事などこれまでの施工件数は1,200件を超える。平成2年宅地建物取引主任、平成12年木造建築士、平成17年2級建築士、平成18年福祉住環境コーディネーター2級、平成26年既存木造住宅耐震診断耐震改修講習終了。

 

なぜ、わたしが【正直】を使命と掲げているのか 

そのワケを聴いていただけますか? 

 

なに食べよなぁ〜
祖父は、徳島出身で、宮大工してました。が言うには腕は大分たっとったみたいや」とその後祖父は、町大工に変わりました 

 


昔は壁でも塀でも風呂の蓋とか、なんでも木で作っていました。祖父は、商店街の中でかんな台置いて、木を削ってるところを見せて、お客さん集客していたそうです。 

大阪が活気があった時代。大阪が、大大阪(だいおおさか)と言って、東京よりも人が集まっていた時代です。 

その後、祖父は、工務店を父に任せて、早くに隠居し骨董屋さんをしていました。小学校のころ、お正月はお年玉もらいに、祖父のところに行くと、にこにこして火鉢で餅焼いてくれました。無口な感じで、黙々と餅焼いてくれました。

 

父は、中学た後、長男だったので、祖父の工務店を手伝っていましたその後、を継ぎます 

わたしが小さいころ、父は工務店の仕事で忙しく、休みの日にどこか連れて行ってもらうことはほとんどありません。たまに、キャッチボールや凧揚げをしてくれたくらいです。

家に帰ってきたら、父は、キリンビールを大びん二本飲んで、早ていました。ビール飲んでる時もあんまりしゃべらな。仕事のことあんまりしゃべらな。父親はそういうもんだと思っていました。 

一方で、「どこどこ行こうや」と約束していても、日曜日に仕事が入る。「行くゆうとったのに」と、もやもや感がありました。「なんや、行けへんのか」、「楽しみにしとったのに」とがっかり。 

父は、時々帰ってくるなり「行こか?」と言って、よく寿司屋連れて行ってくれました。父は寿司べないで、ビール飲んで刺身つまむだけ 

3兄弟、カウンターで横並びになりながら、大好きな寿司べてました。 

なに食べよっかなぁ〜 

父は、しゃべるより、子供がたのしそうにたくさん寿司を食べるのを見て、それをつまみにうれしそうに飲んでいました。

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「あんた一番手かからへん 

 

母は、天真爛漫で明るい性格。子どもが男3人だったので、さっぱりしたところがありました。

 

中学の時、技術の先生が厳しく、忘れ物したら立たされるのですある日、教科書を忘れて、母に「忘れとるから、教科書もってきてーや」って電話。母ほんな、すぐ持って行ったるわ」と言って持ってきてくれました。すると、「なんや美術やないか」というような、そそっかしいところがありました。 

 

兄は長男なので、母に「勉強せえ塾行け」と、よく言われてました。一方、 

下の弟は一番かわいがられていました。わたしは、真ん中だから、母にあまりかまってもらえませんでしたそのかわり、一番自由に育ちましたなにも言われることなく、心配されるわけでもなく 

 

母がよく言ってました 

 

「あんたが一番手かからへん」 

 

 

中学のとき、自ら勉強していました兄は、母にしょちゅう「勉強しなさい」と言われてましたが、わたしはなにも言われない。それで、母にみとめてもらうために、「ちょっと勉強したろうか」と 

 

おかげで、中学年の最後になったら、成績ぐっと伸びました

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「よう貸さんわ...

 

中学2年のとき、同級生のAの影響で音楽に興味をもつようになり、よく一緒にFM番組をエアチェックしたり、レコード屋さんにいったり、コンサートに行ったりしてました。A君がギターを弾いていたので、私もギターを始め、熱中するようになりました。 

 

高校は、A君とは別になりましたが、一緒にバンドをやろうと、メンバーを集めてましたが、なかなか集まらずにいました。 

そんな時、A君のの経営する会社が倒産しました。A君が「裁判所がきて、ギターケースに紙がはられたと・・・」それを聞いて高校生ながらショックでした。 

 

 その頃喘息持ちのは横になると、たまに呼吸が出来ずしんどいと夜眠れない日がありました。そんな父の姿をみて心配してか、母が私に{あんた学校休んで、現場一緒に行ったり。学校に電話しといたるから。」と。 

学校は休めるし、バイト代がもらえる。親ももよろこんでくれるので、現場に行くのが嫌でもなく、嬉しかったぐらいでした。 

 

翌日、担任の先生に呼び出され、こう言われました。 

 

安田、嫌やったら嫌と言ったらええねんぞ〜。} 

 

(親の手伝いして、ほめてくれるんかな〜)と呑気に思っていた私には意外な言葉でした。 

 

先生は、わたしが、本当はやりたくないのに無理しているように感じたのでしょうかなにより、先生が、心配してくれることが、とてもうれしかった 

 

高校3年生のころになるとより音楽やギターに熱中するようになった私A君のところに俺音楽やりたいねん。プロになりたいねんと相談に行きました。A君に「そうか。一緒にやろか!」と言ってもらいたかったと思います。 

ところが、A君は 

「お前進学校行ってるねんからもったいない、大学行かなもったいない」 

と素っ気ない返事。 

A君は親のこともあってか、今思うと僕より大人だったと思います。 

 

母親にも音楽の専門学校行こかな〜と言ったところ、先行きを心配してか 

「そんなん大学いっても出来るやろ〜」と。 

それもそうかな〜と遅まきながら、受験勉強をして何校か受けて1校だけ大学は合格しました。 

 

入学して、軽音楽部やマンドリンや、いろんな音楽サークルにも行きましたがどれももうひとつ 

 もともと大学勉強しよう思って言った訳でなく、廻りに流されてなんとなく入ったということもあり、大学行かなくなりました自分でも方向性がわからず、「何しとんねんなんかちゃうなあ」と思っていました 

 

そんなときY君が久しぶりに来て、「ギター貸してくれ」と言うのです。久しぶりだったので、何言うんやろうなぁと思いました 

 わたしときたら、大学に入ると、ギターから離れかけていましたバンドをりたかったけど、一緒にやる奴いなくて、うまくいっていなかったのです。 

 

一方で、ミュージシャンになりたい気持ちをあきらめきれない... 

 

ところが、Y君は楽しそうに「職場で発表会するねん」と言って、楽しそうにバンドやっとるのが、なんかおもしろくなかったのです君は、一緒にろう言うとったのに、就職もして吹っ切れている。 


そんなY君をみて恨めしかった。 

 

「よう貸さん... 

 

わたしは、冷たくい放ちました 

 

わたしの言葉にY君はショックで言葉が出ないまんま、自転車で寂しそうに帰って行きましたまだ蒸し暑い夏の終わりののことでした。

 

「おれ、なにしとるんやろ...」 

大学に入っても、よく父の現場に行ってました。車の免許取ったら、父から、職人さんを現場に乗せてってくれ言われて。 

 

現場では、みんなの昼飯代を出したりとか、「コーヒー買うてこいとか言ってました。親父、気が利くな」って思ってました 

 

大学ではギターはそこそこで、遊ぶお金欲しさにバイト三昧。卒業出来る見込みがなかったので、就職活動もまともにしないでいました。ところが、ギリギリ単位が足りて無事卒業。卒業したものの、就職するところがありません。それで、とりあえず家の仕事を手伝うことに。 

 

ところが、卒業したら大学、中学高校の同窓会がある「どこ就職してん?」と聞かれるの嫌でした。「家事手伝い」と冗談で言ってました。内心とても恥ずかし。笑いを取ってごまかしていましたが、てもでした 

 

父の工務店では、現場の掃除や材料運び、大工さんや協力業者さんの手伝い。そこで、現場仕事の基本的なことを教わります。ところが、周りはおっちゃんばかりで、話が合いませんやっぱり、かでサラリーマン経験したほうがいいと思就職するときのために、なか資格取ろうと宅建をとりました。 

 

当時出始めた転職雑誌で、就職活動をし、電鉄系の不動産会社とハウスメーカーに受かり、どちらか悩みましたが、モノを作るのが楽しそうと思い住宅大手のBに決めましたは、「おまえは、まだ若いし好きなことしていい。工務店の手伝いせんでもいいねんど」と言ってくれました 

 

職種は営業職。接客、家のプランニング、役所廻りなどいろいろと勉強させてもらったし、同年代の同僚がいて楽しくやっておりましたが、営業のノルマ厳しい、営業の締め会議が夜12時からと遅い。同僚も入れ替わりが激しい。 

 

若い時は体力があるからいいけど、いつまでも、これは続けられないなぁと思いました 

 

また、父が体弱かったので、元気なうちに家の仕事のことを聞いたり、付き合いや繋がりを築いとく方がいいと思いました。そこで、会社を辞めることにしました 

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家に戻ったとき、父は「ああ、そうか」とひと言。嬉しいとか、やめとけともなにも言いいません。

 

家の工務店に戻ってしばらくしてから、不動産屋をやっていた父方の叔母は、よくリフォームの仕事を持ってきてくれたので。叔母の店にもよく行くようになりました。 

 

叔母の店は盛店でした。お店に行ったらいつも誰かいて、お茶を飲んで楽しそうにしゃべっていました。よく気が回り、面倒見が良い。自然に人が喜ぶことをしていました。 

 

私は資格持っていたので、叔母に「功君、継いで不動産してや〜」言われるようになりました。叔母はまだ引退するほどの年齢でもないしと思い、答えはいつもはぐらかしていました。 

 

そんなとき、叔母はのどの調子が悪いと、がんで亡くなってしまいまし た。60歳でした。 

 

叔母から紹介してもらう仕事の比率も上がっていました。 

叔母のお店は借家だったので、その店を借りるかどうか早く決めないといけない。叔母が「リフォームの店でもいいから〜」と言っていたのを思い出し、取りあえず店は引継ぎ、不動産をするかどうかその後に決めればいいと。なかなかか煮え切らなかったのです。 

 

リフォームの店としたものの、工務店の仕事があるので、朝店のシャッターだけ開けて、今まで通り工務店の倉庫に行き現場に行ってました。 

その後決めればいいと思ってましたが、その後がなかなかきません。 

経費だけ掛かり、「これはあかんな」思っていました。 

 

そのうち考えたらいいと思っていたら、2年も経っていました。 

 

ある日、叔母のお客さんから「あんたここで何してるの?」と聞かれました。 

 

その言葉を聞いて、「ここは自分の居るとこちゃう」と思いました。経費も掛かるし、父にも悪いし。なにより、叔母の期待に応えられない。 

 

 

お客さんの言葉もあり、叔母の店を閉めて、父の工務店一本でやる決断ができました。 

 

叔母の店を閉めてしばらくしたころ、父が泣きながら言いました。 

 

「わしゃ、うれしかった。」 

 

わたしが父の工務店一本でやる決断をしたことがうれしかったのです。いままで、自分の想いを正直に口にすることのない父。その父の初めての本音でした。 

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なぜ、わたしは【正直】を使命と掲げているのか? 

私は店を返しました。そして、工務店の倉庫の空き地に小さな事務所を自分で建て、お客さん増やしていこうとチラシや広告などの営業活動をするようになりました。 


初めはチラシや広告を見た方から電話がかかってくるだけで喜んでおりました。 

 

工務店ですので、色々な仕事、いろいろなお客さんから問い合わせがあります。 

受注になることもありますし、そうでない場合もあります。受注できない場合が続くと「しゃないな〜」とあきらめと共に、こちらも「これはせえへんやろな」と見切りも早くなります。 

「新規のお客さんは難しいな〜」と思うことも度々です。 

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そんなとき、30年近いお付き合いがある既存のお客さんに、「なぜ、わたしに仕事を依頼し続けるのか?」聞く機会がありました。そこで、今まで聞けなかったお客さんの本心を聞くことができたのです。 

 「何でもパッと来てくれはるから」 

「何かあったら、安田さんに言わなあかんと思ってます(笑)」 

「ちょっとずつ、ちょっとずつ、ようなって来たら、気分がいいわな」 

 

気心が知れているお客さんだから、人となりがわかっている。だから、正直に、お客さんの本心を聞くことができたのです。 

 そして、「こういう人に来てもらいたいんだな」と自分に合う人が見えてきて、自分の正直な本心も見えてきました。 

 

そのことに気がついた瞬間、ハッとしました。 

 

新規のお客さんであっても、気心が知れるようになれば、もっと踏み込んだ関係になれる。そのためには、正直に、相手の本心を聞くということをしていなかった... 

 

「これで、どうですか?気になることはありますか?」と聞けばよかったけど、聞けなかった。 

 

そもそも、自分はどんなお客さんと仕事をしたいという、自分の正直な本心に気がついていなかった。 

 

そうなんです。わたしには、”正直”さが、欠けていたのです。 

 

そこから、わたしは、【正直】を使命と掲げることにしました。 

 

 

【正直】を使命と掲げることで、たくさんの見えて来たことがあります。 

 

高校の担任の先生が。 

「安田、嫌やったら嫌と言ったらええねんぞ〜。」 

わたしが自分の気持ちに正直でないところに気づいていた先生のひとこと。 

 

中学の同級生のA君に、「一緒にプロを目指してやろう!」 

正直に言っていたら... 

 

叔母に、「不動産継いで」と何度も言われた時、なにも本心を言わなかった。 

叔母が亡くなった後も、「どうしようか」と迷い、決断しなかった。 

「やりたくない」という自分の本心に正直に気がついていたら... 

 

55年間、気がつけなかった。自分の「正直」な本心。そこを意識したら、気持ちが晴れ晴れしてきました。 

 

【正直】を使命に掲げることで、お客さんとの関係にも変化があらわれました。 

 

「あのお客さんに自分のことを聞いてみたい!」と正直に思ったお客さんに話を聞きに行きました。あらたまってどうしたの?と笑いながら、本心を話してくれました。 

 

「言いやすいし、いつでもすぐ来てくれはるから、助かりますよ」 

 

「いろんな業者さんが来ても『うっとこ、決まってる人あるから、もうええよ』と断っている(笑)」 

 

「どんなときも嫌な顔せんと来てくれるから、安心してお任せできます」 

 

このように、お客さんも正直に本心を話してくれるようになったのです。 

 

 

「ちょっとしたことでも、言いやすくて、すぐ来てくれる人がいたらなぁ...」と思っている方へ 

 

「こっちが困っているときは、パーっと来てくれたらなぁ...」 

 

「こちらから電話しても、嫌な顔をせず対応してくれたらなぁ...」 

 

「どんなことでもトータル的にやってくれたらなぁ...」 

 

このようなことが気になっている方が、「あんたがおるから安心や」とお客さんがよろこんでくれたら、とてもうれしいです。 

 

 

そのためにも、【正直】を使命に掲げて行動していきます。 

 

 

最後に、 

いつも口数少なかった親父へ 

 

親父も正直に自分の本心を出すのがうまくなかったのかなぁ 

とつくづく思います。 

小さいときから現場に連れて行ってくれたり、バイト代をくれたり 

本当は、継いでくれたらうれしいという気持ちだったんやろ 

と今では思います。 

そして、いつも遠くから見守っていてくれたこと 

あらためて、感謝します。 

親父、ありがとう。 

                      安田   功

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